社長日記

分岐点

今年の1月17日、朝早く目が覚め、何気なくTVを見ていた。
阪神大震災から16回目の1月17日でした。

どの局でも追悼のライブ映像が流れていた。もちろん忘れたことなどなかったが、実は今年ほどしっかり見たことがなかった。見ながらいろいろと思い出した。

当時、私は大学4回生で、神戸の実家にいて、あとは卒業式を待つだけだった。

その時に震災に遭い、被災した。今でもあの時の揺れや、食器が割れる音、いろいろな物が落ちる音は忘れることが出来ない。幸い家族や家は無事でした。片付けもそこそこに、その日はガソリンスタンドのアルバイトが入っていたので、自転車でバイト先に向かった。

店を開ける準備をしようにもどうしたらいいか、皆はじめての経験で手探りだった。その日は忙しくなかったように覚えている。

余震が続き、その夜は車で寝た。

次の日のGSは戦争でした。私と同じように車で寝た人が、ガソリンを入れに来た。後にも先にもガソリンを入れるのにあんなに車が並んだ光景を見た事がなかった。

道がぐちゃぐちゃで、次のタンクローリーがいつ来るかわからないので、10リッターの制限で給油をした。それでもみなさん『助かったわ。ありがとう。』と声をかけてくれた。

電気も水道もガスも(ガスが一番復旧が遅かった)何日かダメだったが、2日目からは家で寝た。

 

そんなことがあり、私の就職する境遇は大きく変わった。

交通網が遮断され、通えないため、大阪支店勤務予定から、東京本社の勤務へ。

初めて神戸を離れることになった。

行く前に地下鉄サリン事件があり、回りは不安がった。
しかし、初めて経験する社会人。何か期待や希望でいっぱいだったような気がする。

なぜなら、震災より怖いことなどありえないと思ったし、経験したことにより、元来前向きな性格ではあったが、より前向きな考え方に変わっていったような気がする。

 

3年と少しで機械商社を退職し、現職へ。

今年の1月17日には、『阪神大震災に遭っていなかったら、今の自分はなかった』とTVを見ながらハッキリと認識した。自分の中でこんなに当たり前のことに気付いてなかった。ショックだった。

まさしくあの阪神大震災が、人生で一番大きな『分岐点』でした。

きものをまったく知らなかった自分が、13年半経った今、天職と思えるほどのめりこんでいる。そういう職種に出逢えたのも震災があったからのように思う。

今おかれている境遇で精一杯頑張ることを教えてくれたのは、阪神大震災だったということを認識した今年の1月17日でした。

今回の震災は余りにも大きすぎ、町の復興や、それぞれの将来は、ひじょうに想像しにくい状態が続いています。

しかし、命ある限りは希望を捨てずに頑張るしかない。

震災に遭われたたくさんの人々が未来を描き、一人でも多くの人が今回の『分岐点』をいつの日か前向きに振り返ることが出来るよう、心より祈っています。

コメント

    • 万商 萬木寛次
    • 2011.04.06 3:55pm

    藤井社長が、神戸の震災逢われて居たとは知りませんでした。
    当事者としては、今回の震災に遭われた人達の苦労がよーく判るのでしょうね。
    そして、それが人生の分岐点になったことも大きな節目ですね。
    僕の友人「オリバーソース」の社長も、あの震災の被害で廃業まで検討されたそうですが、ソースの原液が残っていたのを見て、別の場所での事業継続を決意されたそうです。
    新しい場所での再開後、立地や、面積が震災前よりも好都合で、事業は拡大。
    「震災が無ければ、あんなに思い切った移転は出来なかったので、何が幸いするか判りません」との事でした。
    大変つらい、悲しい思いをされた被害者が、少しでも良い方向に向かわれますように願いたいですね。

      • fujiishibori
      • 2011.04.06 4:57pm

      良いお話ですね。
      ソースの原液が残っていたというのも運ですし、場所が確保できたことも事業継続につながったのですね。
      難しい選択ですが、何事も『ピンチはチャンス』とプラス思考でとらえられるかが、復興のスピードを
      あげていく原動力になると思います。

      今回の震災により、まだ何も考えられないぐらい打ちのめされている方がたいへん多いと思いますが、
      一人でも多くの方が、一日でも早く『分岐点』が良い方向に行くことを願っています。

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